note

空しく栄える街の中でのFUCKIN'「考察その1」

あれは、ほぼ6月の下旬、夏服の生産も終わり、秋冬のプランに取りかかる前のウォーミング・アップ
の時でしょうか。しばらく栄の中心街にもでかけていなくて、たまには街の風景と行き交う人々を観察に
でかけようか、新しい音源でも探しに行こうかとでかけた日の事でした。
その日の夕方、オフィスに戻ってきた僕の気分は、創作意欲どころか、まったくの絶望感だけが、
充満していました。
とうとつですが、少しまえに、オダギリ・ジョーと仲間由紀恵のキャスティングの"顔”という
TVドラマの中で仲間由紀恵が刑事役のオダギリ・ジョーに向かって、「貴方の似顔絵は書けない。
なぜなら貴方には顔がない。」と言う台詞、そうまさにぼくにはその日、栄の街を行き交う、
流行りのファッションに身を包んだ何百,何千人の一見おしゃれそうな若者達が、
皆が皆のっぺらぼうで顔のない集団に見えてきたのです。
そう、それはおそらくスタイルの喪失なのだと思うのです。個人の内面的なものが外側に表現される、
考えかた、生き方,大げさに云うなら個人の思想までもが表面に現れてくる。それがスタイルというべきものと
思っています。そこに見えたものはトレンドに侵されたファッションという名の布やニットをまとった
集団でした。
正直なところ,洋服の創作に対しての空しさばかりが先立ち、このファッションというくくりの
中に自分自身を置くことさえ無意味に思われてきたのでした。
この後遺症はほぼ2週間程続きました。
洋服というものを通じて、精神的にもおしゃれな人々との係わってゆけることが、
僕の創作の喜びであっただけに,おおげさではなくとても苦しい時間だったのです。
でも、ふと思いました。彼や、彼女達の資質の問題よりも、
このありとあらゆる情報や物があふれている時代、お金さえあればなんでも手にはいるこの時代に、
選択の範囲があり過ぎて、誘導されたり間違ったり、周りと同一化する安心感に頼るのもあたりまえなのじゃないのかと。
これは大部分は供給側の責任なのだと。利益と経済的効率、そして出店競争に終始する巨大資本アパレル、
ポリシーもどこかに置き去りにして物量ばかりで肥満した大手セレクトショップ、
(なにを基準にセレクトするんじゃ!なぜか広島弁、その地方の皆さんご免なさい。)
作品の評価もおざなりに、トレンドと売れ筋ばかりを追いかけるチェーン店のバイヤー、
売上至上主義の内側で、個々のスタイルの成熟を手助けするという本来の使命や良心も忘れがちな
ファッションコーディネイターと呼ばれるSHOPのスタッフ、
ファッションを取り巻く状況はもう悲しい構造から抜け出せなくなりかけているのではないのかな?
そんな状況が街にのっぺらぼうの人々を、そしてシックのかけらもないこの街の風景を生み出しているのだと。
”バカヤロー”と叫んで、ふと我にかえれば
そんなファッション業界の有り様がいやで、
山崎と僕とで、この『room203』という最小プロジェクトを始めたはずだったんだよなと
再び、思い起こす自分でした。ヤレヤレ・・・。
そんなこんなで、FUCKIN'の要素を考察することで、原点戻りでき、
おかげで、
この秋のコレクションも、いつものように,クールでありながらチャーミングな洋服が出来上がりそうです。
FUCKに感謝、山ちゃんにも感謝、そしてこんなsutudio sureの活動を理解して頂いている皆様に感謝します。

2003/sept.10(まだまだ残暑厳しいです。)

[ note top | next > ]